コトバ探しと空間創造_そしてコンテナハウス

人に物事を伝える時、どう伝えようかと「コトバ」を探す。

設計を依頼された時、要求された内容を斟酌しコトバ探しと同じように「空間探し」つまり空間創造を行って行く。我々は「図面」という表現方法でその空間を伝えようとするが、概ねこれは実際に造るときの為の「記号」の世界のようなものである。すなわち「記号」と「コトバ」が同じ意味である事がこの時解る。

少々初期的なコンテナハウスの場合、1/100程度のブロック模型でクライアントにはプレゼンテーションをすると「図面で伝える」よりも理解が早い。図面は2次元の世界だが、「モケイ」は3次元モデルなので頭の中で「翻訳作業」が必要ではない事がその理解を助けているという事が創造出来る。疑似3次元の「スケッチ」なども、それを助ける一つの手段であるし、設計側ですらより深い「気付き」が、3次元モデルによって獲得出来るときもある。良質な気付きは創造的な良循環を生み、期待以上のデザインが出来上がる事もある。

世界的名建築を、学生のときなど、初期的な課題で、あらためて「モケイ」を作らされたり、する事が今の時代でも大学などで行われていると思うが、その意味には、設計作業のある部分を追体験している効果や、まさにモケイによって空間の構成に関わる要素について「気付き」をうながしていたりするものだ。コトバが連続し「文節」ができ、やがてさらに繋がって「文章」となり、脈絡が構成され「文章」となる。くだらない文章が「駄作」で、素晴らしい表現と文脈が構築されやがて文学の世界まで到達出来たものが建築の世界でも名作となる。

こうやって考えれば「建築」が「文学」である事はもう明白だ。

コンテナハウスをモケイを使ってエスキースを作り、あるいはスケッチを描きながらデザインして行くと、「モケイの箱」が一つの最小単位の「ワード」であることがやがて解ってくる。コンテナハウスは少なくともスタートが「ワード」、最小の意味を持った「固まり」という事が出来る。そのワードを組み合わせて文節を作り、文章化して行く。

そうやって考えると、コンテナハウスは素人には解りやすい「レゴブロック」のような世界で、多くの方が「建築」に参加しやすい一つのあり方かも知れない。「レゴブロック」のベースのブロック(単純な構成)には「可能性が色々と含まれている」事を、幼少の頃遊んだ方は記憶にあるだろう。その可能性には私も大きなものがあるように思われる。しかしながら、レゴブロックには「○×用セット」なるものが存在するが、これは「創造指向」の人にとっては「大きなお世話」な世界であると感じるだろう。可能性、展開性を否定したレゴブロックの初期コンセプトからすると「売る事に徹した」悲しい商品。自己可能性の否定的堕落商品(爆)だ。

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少々話はズレたが、コトバを紡ぎだすかのように「建築」もレトリックの世界が存在する。

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私達はコンテナサイズのユニット建築がその枠を超えて素晴らしい建築になって行く事を証明する事が出来る数少ない集団だと自負しています。

 

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レゴブロックは、「既にあるもののレプリカ」を作り出したときよりも、創造的に「何かを創り出した」時の方がステキだと思う。

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人がコトバを覚え、単語を発し、だんだんとコトバになり、文章になっていった時、文学が生まれました。それは人の感情を奮い立たせ、あるいは感傷に浸らせ、あるいは激怒し、あるいは喜び、そして悲しみに沈むことさえあります。たとえばそれは文学のチカラです。文学ではそのレトリックが大切なように、建築の世界では「空間」をコントロールする技術を持つ必要が出てきます。それは表現のための技術ということが出来るでしょう。そんな技術を少しずつ覚え、自分自身の中に空間創造の喜びが生まれてくることは、あなたもかつてレゴブロックで遊んだ時に知っています。そして少しずつ表現力の世界へ入っていき、その喜びを分かち合うことが出来る建築を創り出す事が出来たらわたくしたちも嬉しいと考えています。

inclusive & exclusive_Diversity of container それもこれもコンテナハウスに可能だ

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現在タウンハウス計画は習作の第二楽章に入っている。
実はこのコンテナハウスのテーマは「inclusive & exclusive」である。

結界を築きながら開放的に作る。都市型住居の王道であるが、その王道は一般に知られていない。
建築のエヴァンジェリストのような存在があれば、もっと心地よい建築が増えて行くのかもしれない。

 

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シニフィアンとシニフィエの先に生まれた「ライフスタイルマッピング」メソッド

シニフィアンとシニフィエの事について以前書きました。その事を理解すると、随分世界が見えてくるような話を書きましたが、今日の話題はそれに深く根ざしながら、とっても具体的な考え方を紹介します。当社では一つの指標(モノサシ)として考えるよりどころです。特に商業施設を計画する場合に使います。商業施設の計画は「好き嫌い」ではなく、「到達すべき着地点」があるからです。

建築を計画するとき、はっきりと認識したほうが計画がやりやすいと思われる概念があります。日常的に使われる言葉になっていますが「ライフスタイル」という言葉と、建築やインテリアなどのデザインのテイストやスタイルの関係性を考える概念です。この二つの概念を結びつける考え方をここで考えます。 「ライフスタイル」という言葉そのものが示しているように、人にはそれぞれの「文化」があって日々の生活の中での行動にある種の「スタイル」が現れます。世間ではよく「趣味」という言い方で表されたりします。この「趣味」というのは、基本的には普段は自分の事を考えていれば済むので、あまり人との差異を考えることはないのですが、人と話すととたんに解るように、結構大きな開きがあります。

人の趣味や宗教に口出しする気はありませんが、例えば仕事として「アパレル」をやっていこうという考えがあるのなら、お客様となる生活者はもちろん、それよりもまず自分の事をよく知って、自分が創り出していく自分の趣味の「オーダー(ありかた)」の方向性について明確な認識を持つことが必要になります。 下の表は「プテスティッジ性」-「ローコスト性」;「こだわり性」ー「ノーマルさ」を軸として表現し、人のライフスタイルを当社なりにカテゴライズしてみました。生活者達のライフスタイルをある言葉を借りてカテゴライズしたわけです。たまたまその言葉でカテゴライズしているだけで、言葉を変えると区切り方も変わってくるでしょうし、人はある一定の人格だけで生きてるわけでもないので、完全に分けられるものでもありません。何となくそんな方向性をもっているなあ。という感じでしょう。

それでも、下の表のようなものを作るとそれはそれで人が結構見えてくるものです。 占い師になろうというわけではないですから、こんな事をいつも考えながら生きていく必要はありません。ただ、あなたが自分の建築を計画する段階で、自分の立ち位置と、人々との相関関係を知りつつ計画していくことによって事業的戦略がとても立てやすくなるのです。ショップを事業的に立ち上げるということは、自分の趣味に合うお客様だけに来て欲しいという願いは解りますが、それだけではなかなか経営的に成り立ちません。だからといって、「どなたでもどうぞ」という造りでは基本的に「ブランディング」という作り出すべきイメージが作れません。結果的には誰も興味を持たない空間になるのが実体です。ある照準を中心に、ボリュームゾーンを排除しない形で明確なスタイルを打ち出すということになるのが経営的には正解ですが難しいことではあります。

ライフスタイルとデザインのスタイルをシンクロさせて計画する事を勧めているのですが、おわかりでしょうか?そのためにいろいろなライフスタイルについてある表現を試みました。これらの人々が好むデザインの傾向を知ることによって事業は格段に進めやすくなります。

※「マッピングメソッド」という呼び方も、「各カテゴリー名称」もarchimetal.jpがつけたオリジナル名称ですので、日本全国で通じる言い方ではありませんので念のため。

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●cheap stage チープステージ:貧乏ステージというわけではありません。例えば100円ショップのモノを見て歩くとなんだか「えっ!これがひゃくえん?」と思うようなそういったバリュー感覚に価値を見いだすライフスタイル。ただし添加物だとか材料の履歴などそんな事は関係ない。「やすいがイチバン」のライフスタイル。

●retro stage レトロステージ:いつの間にか、遠い彼方のヒトになっていてもぜーんぜん気にならない。ある意味世捨て人。新しいものの感性や、流れなど気にならないし、それらの評価基準さえもない。おーい!どこにいるの?って感じの生き方。もちろん別に悪い訳じゃない。でも新しいものにいいものもいっぱいあるよっていっても耳貸さないですね。

●normal stage ノーマルステージ:なんというか、「フツー」の人。フツーの生き方。フツーの感性。でも「中庸」とは全く違う種類。特段変なわけじゃないが、フツー以外の事はこの方には別の世界に見えるので興味を示さない。

●populer stage ポピュラーステージ:ノーマルステージのライフスタイルに、「これはなかなかいいね」感覚が備わったライフスタイルパターン。こちらのほうがコトバとしては「普通」感覚で、フツーとはちょっと違う。ある程度「群」から離れようかなあという意識があるライフスタイルで、そのチェック意識も存在する。

●simple stage シンプルステージ:シンプルイズベスト感覚。余計なものをまとうことをいやがるライフスタイル。ちょっと昔の「無印良品」的ライフスタイルといえるでしょう。最近でいうとユニクロの方が近いかも知れない。

●casual stage カジュアルステージ:「軽いノリ」が好き。フォーマルな感覚って分からない。っていうか~、イヤ。大体そんな中身でもないくせになによすましちゃってさ、カジュアルが一番よ。だって身軽、走れる、飛べる、はねられる。そんな自由さが私に似合ってるのだぴょ~ん。って感じの明るい方々です。

●social stage ソーシャルステージ:人との関係の中で中庸を選ぶ生き方のことの名称として使いました。基本的に社交好き。だから出来れば人とぶつかることは避けたい。そんな私が選ぶのは決して目立つこともなく、でも「違いが分かる利口さ」を合わせ持った生き方。そんな私は社交好き。どんな話題にでもついていける気がする・・・気がする。気がしてるだけ・・・。

●authentic stage オーセンティックステージ:何でも鵜呑みにすることはない賢さを持ち、自分の価値基準を持って生きていく。誰かに何かを問われれば自分の意見が言える。それも受け売りではなく消化された自分の意見。そんな私は食べるものにもうるさいの。でもグルメ道をいく訳じゃない。そんな人間の欲望のコントロールができなくてどうするの?という生き方のことです。

●traditional stage トラディショナルステージ:「時の洗礼のチカラ」を最も信じる生き方。伝統的なものは生き残ってきたすばらしいもの。その歴史の長さがそのものの良さを証明しているじゃないか・・・。その歴史の延長線が好き、その学校の歴史、そのスポーツの伝統、先輩と後輩の関係。そんな事を守りながら生きていくことがとても大切だというライフスタイル。

●eccentric stage エキセントリックステージ:風変わりな事が自分にとって大事な生き方。人と同じはイヤよ。何か違うことをして目立つのもいいわ。正統派の中で群れているなんてとてもじゃないけど出来ないわ。って感じです。アイデンティティーの成立のためにあえて「人と違った道を選ぶ」そんなライフスタイル。

●artistic stage アーティスティックステージ:「芸術家的生き方」を旨とする。まあどういうことかよく分かりませんが、世間の経済システムだとか、社会的関係だとかそんなのは自分の興味の範疇ではない。私は口の中がこのクープで切れてしまいそうな、そり立ったクープのバゲットだけが好き。他のパンはパンじゃないよ。だって昨日は満月だったし、僕の気持ちは荒れているのさ・・・(嘘)なんかそんな感じの芸術肌とでも申しましょう。

●attack stage そうさ、これがパンなんだ。こっちはパンじゃない!!一体何を考えてるんだ。こんなパン投げ捨ててやる。それに比べてこのパンのなんと愛おしいこと。いったいどうやってつくっているんだろう。なっ何をするんだ!このパンをそんな皿に置いちゃだめだ!。てな感じが一時が万事、生活全般にわたる。それが一貫してればいいのですが、そうやって騒ぐ事が好き、だからいうことが日々違う。でも本人はそういうつもりじゃない。本当にその時はそう思っているのです。

●executive stage エグゼクティブステージ:多くの経験をし、知識を持った中で「私はこう思う」という経験則と知恵から発する類い希な説得力を持ち、決して奢らず、回りの者もその人を自然に信じている。でもちょっとだけ鼻につくその雰囲気・・・やはり自分に相当惚れてるタイプの方々なのです。

●broadband stage ブロードバンドステージ:私としてははじめて使う新ジャンル名。エグゼクティブステージの進化型と解釈される。時代の変化を読みとり、ものによっては「これで充分」「これでなきゃだめ」の使い分けがきわめて高偏差値的。ブランド品はイヤじゃなく、結構信じているけど、そうでないものの中から光るものを見つける努力もし、見抜くチカラも持っている。生きる基準の指標が柔軟で幅を持ちダイナミックレンジが大きい。

そんな訳で本日のお話は終了。最後まで読んだのはあなただけでした。

Robots(ロボット_自律的連続自動作業機械)とコンテナハウス

一般的な概念は、人に近い形および機能を持つマシンのことで、『鉄人28号』『鉄腕アトム』や『機動戦士ガンダム』等のSF作品に登場するようなものが一番イメージに近いだろう。また、いわゆる「人造人間」や「機動兵器」(アイアンマン)等もその概念に入るものであろう。

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asimo HONDAがASIMOを発表してからもう何年も経つ。ポイントは完璧な2足歩行の自律機械と言う点だ。
でもなんで自動車メーカーが「ロボット」をと思われる方も多いかもしれない。実は「クルマ」は真の意味では「ロボット」という概念から少し外れるかもしれないが、歴史的には最も古く登場した「パワードスーツ」という概念に近い。「クルマ」の進化系が「パワードスーツ」で、それがよくわかるのが「ブルドーザー」や「パワーショベル」だ。解りやすい究極は映画エイリアンに登場しロドリースコットがエイリアンと戦う作業用パワードスーツは、ロボットに近いものだ。ailian_001

さて、では「パワードスーツ」の概念を広げていくと、エヴァンゲリオンのような超パワードスーツ系と、もっと初原的な「クルマ」もロボットの仲間である事が自然に理解できるようになる。4輪を転がす事で前進・後退・転回をこなし、人間が到達したい地域まで、その足りないパワーを補うための出力装置「エンジンまたはモーター」がついている。コントロールこそ人間が行うが、コントロールを行うためのデバイスが、「スピードメーター」「タコメーター」「ギア」「ブレーキ」「クラッチ」「ハンドル」などである。これは総称すれば「操縦装置」という事になる。

直近までの現代社会は「超安楽性」を求める経済活動の歴史という様相を呈していた。「超安楽性」のための開発が経済活動を活発化し、膨らませてきた。欧米のファンドはそれらに投資をし、アジアのメーカー(日本_爆)がそれに応え、欧米はそのキャピタルゲインで生きてきた(ちょっと乱暴だけどまあ事実)。地球環境は破壊され、ゴア副大統領の勇気ある活動でどうやら環境保護の概念が定着し、「地球大の環境的不安」に関して、人々は一定の理解を持ち、そして考え、行動する事が正しいと考える時代がやってきた。

ロボット技術がそんな時代になって、ようやく本格的に定着すべきところへ、あるいは、なるほどこんなところにという機能を持って使われ始めようとしている。かつて「鉄人28号」などが少年たちの「未来」を予感させるものだったが、それらはとうに「ロボット兵器」として姿を変えて実在している。コワイよ、カメラがついた確認用代替視野装置が付き、機銃を装備し、ミサイルを装備し、最後は「死」が怖くも何ともない兵器ロボットは自爆してまで相手を殺傷する。鉄人28号は正義の味方であったが、兵器ロボットは、使うものに従う別人28号である(爆)。

介護環境や自助的生活をヘルプする部分的パワードスーツのようなもの、体内に入り、がん細胞を撲滅するマイクロロボット、ロボット技術が展開すべき方向への利用が広まって来ている。あなたも、クルマを運転するとき、実はクルマが「パワードスーツ」に近いものである事を認識しながら、超人間的パワーを発揮するそのマシンの有用性についてもう一度考えてみると、大きく利用方向が広がって面白いかも知れない。

コンテナハウスはモービルハウスほど簡単に動かす事は出来ないが、それでも一般的な建築の枠を超え、ある日眠りから目覚めた巨神兵のように動き出す事が出来る。ロボット的建築として今後ある方向に向かうかもしれない。

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実際に作ってしまった「自律的水平保持型自動展開建築(爆)」自衛隊に納品した。非建築、ロボット未満(爆)
内部に自動展開用パワー部が見える。展開後床の中に自動格納される。
ビューロベリタスでは「建築確認は下ろせない」と言われた。そりゃそうだ。下ろしてくれるとも思ってないけどネタで聞いてみた。

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メカトロニクスと建築の融合という方向性もあながち否定は出来ないという思いつきについて考えてみました。

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そしていつしかこうなる(爆笑)。

描かれた世界のむこうにある私の真実_アンドリューワイエスとコンテナハウス

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淡々と同じテーマを描き続けたアメリカンリアリズムの巨頭アンドリューワイエス。

スーパーリアリズムのジャンルでもあるが、ポップな要素を持つスーパーリアリズムと少し線引きされる部分がある。それは奇をてらった部分は微塵もなく、さらりと描いて行くリアリズムというところだ。
ジャンル分けなどしてもそれは「鑑賞する側の都合」なので意味があるとは思えないが、「妙に引っ掛かる作家の一人」だ。

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あらゆる創作的活動には、描く世界の向こう側に「何かがある」事は明らかだ。創り出す世界の向こうに何かがある。それは建築も同じだ。それが何なのかは語ってもいいし、語らなくてもいい。

本人にとっては「自律的衝動」としか思えない「動かすチカラ」は、「生きるチカラ」に似て、自分ですらコントロールする事は出来ない。それが作品の向こうにある自分自身の真実なのかも知れない。

都市のなかの女性建築家とコンテナハウス(100記事突破祈念試論)

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建築の設計と女性の生き方はマッチングがいい。女性に勧めたい職業の一つだ。建築的感性や美的感性、あるいは文学的特性に加え理系的特性に関しても特に女性には不向きであるという確証は何一つないどころか、かねてより書き続けているように「建築とは技術をベースにした文学である」と思う事と、やや自嘲も含め「建築家はオトコ芸者である」という特性も含めて、基本的に女性の生き方に支障をきたさない職業であると考える。

それに加え、女性の生き方の中で「子育て」というシーンに対しても「建築設計」はホームオフィスでの作業が成り立つ世界であることが、出生率低下の現代において、女性が社会の生産活動から、子育て時期もそれから離れる事無く続けて行ける方法があるという事実も大きな理由の一つだ。私も諸般の事情で「子育てしながら事務所経営をして来た」ので上記の話は証明済みである(爆)。

ポイントポイントで複数の人間で研鑽しながら設計内容を高め合う事も当然必要だが、日常的な作業系の時間は「ホームオフィス」で充分可能だ。むしろ時間を上手に使って効率も上がる可能性もある。「通勤時間」はいらない。設計データはインターネットで、サーバーに繋ぎ、ファイルを共有すれば協業作業だって可能だ。今どきは設計データは基本デジタルデータであるから、何も困らない。

実践テレワークに向かって

Wiki_pediaによると
テレワーク (Telework) あるいはテレコミューティング (Telecommuting) とは、勤労形態の一種で、情報通信機器等を活用し時間や場所の制約を受けずに、柔軟に働くことができる形態をいう。また、テレワークで働く人をテレワーカーと呼ぶ。テレワークという単語は日本での造語であるが、テレワークで指している労働形態は欧米にもある。特に米国は1970年代にテレワークが生まれた地でもあり、「テレワーク先進国」と言える。(引用文)
とある。

我が社はインターネットを介し、ご理解いただいた中で仕事の発注をいただく事が多いので、お客様は日本国全域にわたり、へたをすると海外への仕事も発生する。生産拠点は中国や韓国なのでもともとインタージャパンあるいはインターナショナルで仕事をする事になる。その事そのものは最初からその覚悟なのでいいのだが、「建築物」なので、建設地には必ず一定期間は行く事になる。スタッフは建築の専門家だが「職人」ではないので現場での設置指導やその他の仕事をする場合、現地のホテルや宿に泊まり仕事をするのだが、べったり現場にいる必要もなく、50%くらいのイメージだ。その間も他の物件の設計や企画の計画も練ったりしている。

つまり、他所で日常の仕事もこなさねばならないのだが、「テレワーク」という概念で、ホームオフィスで仕事をこなすのと同じく、普通にこなす事が出来る。顔を突き合わせていないと出来ない仕事がないとは言わないが、概ね実は我々の仕事はインターネットが繋がっていれば出来ない訳ではないのだ。ただ企画や設計の仕事をそのような出張先でこなしたいので、出来るだけ大きなモニターで仕事がしたいという事実はある。そこが「ノートで充分」と行かない所が持ち運び面で少々厳しい所だ。また、お客様もインターネットを通して発注なさる場合が多いので、日常の連絡はメールなどを多用する事になり、図面を見て頂く場合もメールで添付ファイルでお送りする事が多く、これはきわめて大きく時間を節約する事が出来るポイントにもなる。結果コストダウンの大きな成果を上げる事が出来る部分でもあるので、商品のコスト価値にも反映出来る事になる。

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世間はまだまだアナログな部分も多く、どこに(どんな場所に)会社があるのかなども会社の信用性に係る一つの項目だと思っている方も多いようだ。我々のような仕事で東京の一等地に事務所を構えるなどという事は「負担」にこそなれ、どれほどの意味があるだろうとも思う。それでも事務所に尋ねてこられる方も少なくはなく、比較的交通の便のいい所に事務所はある。話は、つまり当社は現実に「実践テレワーク」時代に入って来たという事です。「読み、書き、そろばん、インターネット、パソコン、英語」現代社会人の基本中の基本となってしまいました。

当社の仕事をして頂くにしても、勤務地はあなたの自由。でも時々現場監理にいってね(爆)。
そんな日もそう遠くはない。というか近い。

モケイが語る疑似空間体験とコンテナハウス

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このブログにはたびたびモケイが登場する。そうなんです。たびたび作っているからです。設計者としては、建築の設計業も何十年とやっていれば、自分が引いた線と、出来上がるであろう空間のイメージは概ね創造出来る。それどころか、平面図の中に視線を落として、図面の中を歩いて行けば、アタマの中にはCGゲームばりに三次元空間が脳のスクリーンに映し出され、脳内3Dレンダリングが行われる。しかも動画で処理出来る程そのアナログチップのスループット速度はスパコンの「京」なみに早い。しかも空間に問題があればアラートが起動し、問題点を視野の中に投影する(爆)。

それでもなお、モケイは作る。ゆるりと確認出来る。誰もが確認出来る。素人(クライアント)が、設計段階で、その作業に確信を持って自然と参加出来る。3Dモケイには空間説得には充分なリアリティーと解りやすさがあるからだ。昨今の事情をいうならば、やがて、建築の世界にも実際に3Dプリンターを使う日も近づいている事だろうと感じる。CADで図面を引き、そのままそのデータを送れば3Dプリンターがいきなり立体モケイを作るとなどという日はもう数メーター先まで来ている(爆)。

本人も、担当者も作るが、さすがにここは学生バイト君たちの活躍シーンだ。普通の建築事務所と違ってここで作るモケイは必然的にコンテナモジュールの仕事が多いので20FEETの1/100縮尺のコンテナを大量に作らされたりする。コンテナ工場だ(爆)。

写真はコンテナ系ではないが、こうすれば素人にとっては「図面」を見せられるより、遥かに解りやすい。また室内にカメラ視点を持って行けばまるで室内にいるかのような疑似体験すら出来る。

 

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さらに精度の高いモケイを作り、豆球を使って照明も作り込むと、「照明効果」などのシミュレーションも出来る。

ある意味「コンセプチュアルアート」にも成りうる。あるいはプロセスアートの一つのジャンルでもある。身近なコンセプチュアルアートで、よく似た世界のものに「地図」がある。地球規模、あるいは宇宙規模にもなれるこのコンセプチュアルアートの歴史は長い。このアートには「スケール感」を含んだ概念が持ち込まれ、時空間とスケールのディメンジョンの中で私たちを楽しませてくれる。

 

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文学の中で「小説」などもある意味「疑似体験アート」の世界である。私どもが「建築は技術を背景にした文学だ」と言い続ける一つの検証例にも成りうるような気がする。